Nest
COVER INTERVIEW 07
at archi cafe Xebec
インスタレーション、サウンド、ビジュアル、ダンス等を取り込みながら、様々なメディアを横断した作品を作り続けてきている。基幹メンバーはディレクター、ミュージシャン、建築家、映像作家、コンピュータ・プログラマー、パフォーマーなどと多岐にわたっている。そのネットワークそのものがnestだと言っても過言ではない。
ステージワークを中心とした作品は、カテゴリーにとらわれない自由な発想で、様々なクリエーター同士のディスカッションに基づいて作られており、最近では情報流通や表現のシステムそのものに目が向けられている。またテクノロジーの発展とコミュニケーションの関係も考え続けられているテーマである。
nestの活動は常に「対話」であり、様々な形のコラボレーションを続けている。
※nestのHP http://www.kt.rim.or.jp/~nest/より抜粋。
Flat :メディアアートを扱う側として、メディアをどう捉えていますか。
濱中(nest) :メディア、メディアってみんな一言で言うけど、メディアートって、たぶんアートとしてはずっとメディアの問題しかなくてね。それがたまたまメディアの特質として、電気信号で表示するものっていうふうになっただけなんじゃないかって思っていて。絵の具にしても油絵の具にしてもアクリルのガッシュにしても メディアはメディアじゃないですか。で、LEDなんか使ってると宮島さんみたいだって言われるわけですよ。ぱっと見、LEDとか見ると絶対みんな宮島さんみたいだって言うんだけど、あれを見て宮島さんだって言う人はいないと思う、言われたら言い返すだけのそれなりの根拠って言うのはいちよう用意はしているので。
五十嵐 :照り返しは以外に綺麗で、照り返しのほうが綺麗だったってことはないですか。
濱中(nest) :ありますよ。それですごく思ったのは、最初はガラスの鏡面なんかは論外だけど、ステンの鏡面でやるとかは話としてはあったんだけど、即物的にそれをそのまま照り返すってのはいかがなものかと。で、俺の中で「あのLEDの粒々をそのまま見てほしいんです」って言う意識はまったくないわけですよ。そういう即物的なものを見て欲しいんじゃなくて、仕組みとかバックボーンみたいなことで、「このLEDは今こういう光り方してるけどたまたまパッチがこういう組まれ方してるからこう光ってるだけで」とか、あのLEDの粒々は別にあんな直線で並んでる必要はまったくないわけで、そういうのはやることごとにどんどん変えていけばいいって言う感じで。
五十嵐 :今、LEDで宮島さんの話があったけど、宮島さんって数字を使うじゃないですか。数字って意味がないんだけど意味を持つこともある。特に「メガデス」なんかはある瞬間、パッと消えるって言うのは、クライマックスをきしてるんだけど不意に訪れるクライマックスっていうか。
濱中(nest) :でもやっぱり行く側としては、「全部が消えるんだ」って刷り込まれちゃうとその消える瞬間が見たいなって思って、それ見るまでは帰れないみたいな、みたいなうすい期待を抱いて行っちゃうわけじゃないですか。僕らのはそういうものではまったくないね。
五十嵐 :メディアアートを扱うときに大きさの問題がわからなくなるってうのがあって。たとえばナムジュンパイクだったらブラウン管っていうサイズがあるけど、プロジェクションになっていくと作品の大きさって言うのはむしろサイトスペシフィックになるのか、決まった大きさがあるのかって言う。大きさの問題がどう扱われているか聞いてみたい。
濱中(nest) :RE[ ]がやろうとしていることっていうのはそこの問題だと思ってて、メディアアートがたぶん原寸大に、つまり人間の身体としての原寸大に成りうるんじゃないかって言うことだと思うんですね。でないと、あれってメディアアートとしては模型があってプロジェクションされていればそれで完結する話じゃないですか。そこに「これは15分の1なんですよ」って15分の1の模型の身体を持ってくるって言うのは、発想としては全然違うんだろうなって思う。
五十嵐 :RE[]のグラッフィティーオブタワーって基本的にサイズの根拠ってないですよね。ネストの場合、ダンサーとか基本的には人がいるから人間がものさしになるんだけど。グラッフィッティーオブタワーってまさに、部屋のサイズから決まったって言う話があって。グラッフィッティーオブタワーのほうはサイズの根拠って難しいな。難しいというか、なにか人がいないと決められないのか。
濱中(nest) :でも、サイズに根拠はなくていいって言う…
五十嵐 :まさにそこなんですよ。要するにナムジュンパイクの場合はモニターって言うサイズがあるから、それをいくつ積み上げるかって言う物理的な興味がある。
濱中(nest) :まったくその通りで興味の対象がまったく違うと思うんですよ。実現しようとしているゴールが全然違っていてナムジュンパイクは凄く物理的なものとして、モニターっていうのをモノとして捉えていて、モノのサイズとして自分の中でイメージがあって。それで、どれだけ大きいものつくるとか、どういう変な形をやるとか、そのなかにどういう違うコンテンツを入れるとかってことだと思うんだけど、RE[ ]は多分そっちじゃない。
五十嵐 :RE[ ]はやっぱりスクリーンの世代って言うか、基本的な出発点として切れてるって言うのはよく分かりました。
濱中(nest) :そこでその間がスタジオアッズーロ。
Flat :メディアアートを見せるための空間というのはどうあるべきだと思いますか。美術館という展示スタイルに対してどのようにアプローチするのかということも含めて。
濱中(nest) :たぶんね、メディアアートってテクノロジーに左右されやすいくだらないところがあって、結構大事だったりするんだけど。プロジェクションがこの明るさ以下じゃないと綺麗に見えないから部屋が暗くないといけないだとか。いわゆるインスタレーションでここ10年多いのは入ると部屋が真っ暗っていうのが一番多いじゃないですか。「えっなんで!」みたいな(笑)。それはただプロジェクションの能力が足りないからとかそういうレベルだったりするんですよね。これが日中でも見れる明るさものが出ましたって言ったら、明るい中でやりたい人ってかなりたくさんいると思う。だからそういうところがネックになってる気がする。
で、現代美術って戦略あってなんぼみたいなのがあって、セルフブランディングじゃないけど、それができないとそこで伸していけないって言うのがあって、今回のLEDで凄く危険だなと思ったのは、あれってそのまま商業ベースでイベントに使いたいから貸してくれって言われたらそのまま貸してもいいようなシステムなわけですよ。だから、どこからがアートで、どこからがただの電飾のシステムなのかっていうところの線引きをきちんと自分の中でもっておかないと「単純に電飾屋さんで終わっちゃったね、あれ。」みたいなことになっちゃうので、そこの文脈をどいう組み立てていくのかって言うのがすごく大切。
Flat :テクノロジーが発達するとメディアアートも変わるということですか。
濱中(nest) :変わりますね。それはメディアアートに限らず、メディアアートってもともと流れてるアートのなかの文脈の一つでしかないという捉えられ方なので、絵の具だったり何だののなかに、プロジェクターだとか、ディスプレイだとか、電子系のデバイスが入ってきたよ、これ使ってなにやるっていう、選択肢が増えただけでしかない。
※五十嵐=五十嵐太郎 氏 (http://www.cybermetric.org/50/50_twisted_column.html)
(インタビュアー 山本真也)